富士山と八ヶ岳の背くらべ

八ヶ岳は、昔むかし、日本一高い山で富士山よりも高かったのです。

大 昔、まだ日本が大陸と陸続きで、見渡す限り大平原でしたので、山々の中で際立きわだって高く見えたのは八ヶ岳と富士山でした。

ある時、この二つの山は背比べの争いを始めました。富士山の女神・木花開耶姫このはなさくやひめと八ヶ岳の男神・大山祇神おおやまねずのかみはどちらも強気です。


『私の方が高いわよ』

『何ォいってるで、おんの方が高いよ』

と、どちらも譲りませんでした。

そうなると、いつになってもキリがないので、二つの山は阿弥陀如来あみだにょらいに仲裁ちゅうさいを頼みました。

阿弥陀如来は頭を抱えて、何日も考えた結果

『ほうだ!水を使ってみらだァ。水は高いとこから低い方へ流れるだから』

と思いつきました。

よく晴れた日、いよいよ背比べをすることにしました。

阿弥陀如来は、長いながい樋を八ヶ岳の頂上から富士山の頂上にかけて

『よく見てろし、水ンどっちィ流れてくか』

と、両方の山に声をかけると、樋といの真ん中から水を流しました。

すると、水は富士山の方に流れていき勝負がつきました。八ヶ岳が勝ったのです。

八ヶ岳は得意になりましたが、、富士山は残念でたまりません。

気の強い女神は悔しさのあまり、八ヶ岳の頭を太い棒で思い切り叩きました。

すると、八ヶ岳の頭の部分がポッキリと折れ、八つに割れてそれぞれが峰になりました。
八つの峰は権現岳ごんげんだけ、西岳にしだけ、阿弥陀岳あみだだけ、峰の松目みねのまつめ、網笠山あみがさやま、赤岳あかだけ、横岳よこだけ、硫黄岳いおうだけと呼ばれています。
そして、折れた頭の部分は八ヶ岳の北側に落ちて、霧ヶ峰<きりがみねや蓼科山たてしなやまになったと言われています。
また、八ヶ岳は悔しさと痛さのあまり、毎日泣き明かし、その涙が滝のように流れ出して川俣川<かわまたがわや
鳩川はとがわになったと語られています。

石和昔話

鵜飼で生計をたてていた勘作 という若者がいました。 勘作は能登の国に流された 平時忠卿 (たいらのときただきょう)であるとも、また壇ノ浦で破れた平家の縁者ともつたえられています。

ある日、勘作は 法城山観音寺の 定めた殺生禁断の流域で漁をしていたため捕らえられ、簀巻き(すまき)にされて岩落ちの水底に沈められてしまいました。たとえおきてを破ったにしても、この処罰は情け容赦のない仕打ちです。当時、観音寺は甲斐源氏の流れをくむ武田家の庇護(ひご)の下に、大きな権力をふるっていましたので、平家という生まれが憎まれたのでしょうか?

水底に沈められた勘作の恨みは亡霊となって毎夜、笛吹川のほとりに現れ、村人を悩ましました。ある時、この地を通りかかった日蓮上人は、村人の話を聞き、勘作の霊を鎮め、村人を安心させようと弟子の日向上人のする墨で、日朗上人の集めた石に、法華経、1部8巻 69,380余字を、三日三晩かかって書き上げ、その一字一石の経石を岩落ちの水底に沈めながら、亡霊の供養をしました。

すると、霊はたちまち心を鎮めて、再び現れることはなくなりました。

その折、日蓮上人は、この川のほとりに小さな塚を作って去りました。