チェロキーインディアンの違う見方 (マサとジョー)

まさ: 僕たちは1日中、ゴールド・マイン(金の鉱山)の見学と砂金取りを楽しんだ。その時に疑問に感じた事があった。なぜ、インディアンは金の多い 場所に住んでいたのに金を取らなかったんだろう。この質問を答える前にもう少しくわしく、チェロキーインディアンの歴史について紹介します。

ジョー: 1828年までは、ヨーロッパ・アメリカ人とチェロキー・インディアンの中にいろいろな交流があった。この交流でチェロキーインディアンとアメリカ政府のなかがよくなり、チェロキーインディアンの国を作り、アメリカ政府が国を守ってくれた。この国には、チェロキー語の文字や新聞もあった。その当時のヨーロッパアメリカ人にとって、チェロキーインディアンには、かなり進んだ文明があった。

しかしながら、1828年チェロキーインディアンの土地で、ヨーロッパ・アメリカ人が金をみつけた。金を見つけたヨーロッパ・アメリカ人は、金を自分の物にしたくなった。チェロキー・インディアンはこの土地に昔からダロネガ(金)と言う名前をつけたが、金を取る事はあまり興味をもたなかった。ヨーロッパ人が金をみつけてしまったので、チェロキーインディアンを守るというアメリカ政府の協力がなくなった。そのため1万人のチェロキーインディアンの涙の道が1838に始まった。その他に2千人ぐらいは高い山に隠れていた。この時代のチェロキーインディアンの問題を理解するため、2つの事をしらべてみた。
 

  1. まさ: ジョーのひいひいばあちゃんはチェロキーインディアンでした。 だからジョーは子どもの時 からチェロキーインディアンの事に興味をもっていました。その中でジョーが1番気に入ったことは チェロキーサウナでした。 昔、チェロキーインディアンは1軒に1つずつサウナがあったそうです。 このサウナは、いろいろな使い方があったけれど、1つの面白い使い方はジョーが紹介してくれました。 それは新月に男の人が特別なサウナーを川のそばに作り、そのサウナに入ると、月と同じように新しく生まれ変わるのです。 僕たちは、新月ではなく、満月の夜にしてみました。
  2. ジョー: 次の朝、私たちは早く起きて、ノースカロライナ州を訪ねて行きました。涙の道でオクラホマ州まで行くよりむしろ、高い山々に隠れた人たちのひいひい孫にあたる現在のチェロキーの人々を訪ねました。私たちは、100年前のチェロキーの生活を復元した村を訪ねました。 私たちは、なぜチェロキーの人々がヨーロッパ・アメリカ人と同じように”ゴールド・フィーバー”にならなかったのか、いくつかの原 因を見つけました。

 

これはチェロキー、ノース・カロライナである「この丘のために」 (Unto These Hills)と言うドラマに出っているイーグル・ダンサーです。



他のアメリカのイーグル

   
左は、エトワインディアンのいーぐる・だんさー 右は、
アメリカの1ドラー札にある国のシンボル
 

 
アドベンチャー・メンユー