Gold Rush Days
レポートは、ダニエル(9歳)とまさ(13歳)書いた。  

金色の日
by Daniel

今日は金色のフィシュフライの朝ご飯から始まった。私たちが8ぴきのクラピと1ぴきのバスを食べた。僕はすばらしいと思った。しかし、まさ君が食べられなかったので、ポテト・スープを食べた。次は、川へ行くじゅんびをした。昨日より、川は暖かったけど、冷たかった。ブルとした。 その後、町へ行った。目的は金鉱を、見学をする事や、ゴールド・パンニングをする事だった。 金鉱の中を、20メートルぐらい下に入った。自然の実感を感じた。涼しかった。59どFだった。気持ちよかった。ガイドの、じーちゃんに三番の線路はマインの車の電気のため教えてくれた。  70メートルの深さで50メートルは水だった。この金鉱には、世界の一番大きいの一つの金の流れだそうです。 20世紀の始めごろ、この金鉱はミシシピの東の一番大きい物だった。金鉱を出って、ゴールド・パンニングで、一人一人が、11個ぐらいの砂金を取った。金持ちになった、イエーイ!


ゴールド・ラッシュの反省
by Masa

今日、僕は、ダロネガの町のゴールド・マイン(金鉱)に行った。少しゴールド・ラッシュ(ゴールド・フィーバー、砂金取り)の気分を味わった。今日ここにいた人が、金にうえていたが、僕は、この次の、ジョージアのゴールド・ラッシュの話は、わすれてはいなかった。        

1828年、チェロキー・インディアンの住んでいるダロネガの土地に、何千人もの白人が、アメリカ初の、ゴールド・ラッシュをもとめに、現れた。(ダロネガと言う言葉は、チェロキー語では、金色と言う意味です。)みんな「金」で、いかれてしまった。これはゴールド・フィーバーと言います。そして、10年後の、1838年、白人が、チェロキー・インディアンを、おいだしてしまった。 白人は、金にうえていた。ここから、チェロキーインディアンの涙の道(Trail of Tears)が始まった。ジョージアからオクラホマ州までに冬に、移住した。この話は、ダロネガの金の博物館で聞いた。

日本にも、似たような話がある。甲斐の国の親方が、塩山にある金鉱で、働いてた、人を殺し、金を一人じめしたと言う。 

なぜ、同じ人間なのに、チェロキー・インディアンは、金の多い場所にすんでいたが金を、受け入れなかったんだろう。チェロキーインディアンはどんな人たちなのか調べてみたい。 
 

(左にある写真はダロネガの昔の金貨を作る場所、現在は北ジョージア大学の建物。右にある写真はアトランタ首都の建物、ドームは打らネガの金が張ってあります。)
 
 
 
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